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時代は戦後の高度経済成長期である。
都内に限らず全国的に土地の値段はそれこそウナギ昇りに高騰していたのだった。
余談になるが、私の練馬の自宅近くにある音楽大学では、地方の金持ちの家からそこに入学してくる女の子は、入学と同時に、大学の近辺に30坪ほどの土地付きの家を親から買ってもらっていたというのである。
ずいぶん贅沢のように思えるのだが、4年経って卒業して郷里に帰るときには、その土地と家の値段は驚くほど上がっていて、売った差額で4年分の学費がチャラになるくらいだったのだ。
その頃の練馬といえば、東京でもまだ田舎である。
その練馬でさえそうだったのだから、あとは推して知るべし。
それほど地価の上がりは見事なものだったのである(ちなみに、私の家が練馬区小竹町に越したあとの話だが、少しでも生活の足しになるようにと、家の空いている2つの部屋を、普通の家庭出身の音大生に、ピアノ可という条件で借りてもらうことにしていた。
その頃はピアノ騒音など問題にもならない時代だったのである)。
そんな時代状況だったから、H歯科商店に入って2年も過ぎると、私は、その10年で「暖簾分け」させるという約束は、ぜったいに反故になると確信したのだった。
これから10年もすれば、おそらく都内の土地の値段は、気が遠くなるほど高くなっているにちがいない。
だとすれば、暖簾分けの約束など自分から早に見切りをつけて、さっさと独立して商売を始めたほうが得策だと考えるようになっていたのである。
また、早く独立すれば、それだけ母や妹たちに楽をさせてあげられるという思いがあったことも確かだった。
その当時、歯科材料の販売店同士でつくっていた「組合」には、どこかの店で5年間、丁稚としてこの仕事を続けたなら、独立して自分で店を持って仕事してもよいという規定があった。
私は、この規定に目をつけた。
入店して足かけ4年半が過ぎたある日、私は主人に、「あと半年で足かけ5年勤めることになりますから、辞めて独立します」と宣言したのである。
だが、なにしろ、先生方から「やり手の坊や」と呼ばれ、H歯科商店の営業マンとしてトップを走っていたくらいだから、辞めると聞いた主人がどう思ったかは、おおよそ見当がつこうというものだ。
私か入店してその頃まで、私の給料は月に3000円まで上がっていた。
最初は500円だったから、6倍になっていたわけである。
辞めると言ったとたんに、5000円に跳ね上がったのだった。
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